現役字幕翻訳者 田中武人氏のコラム 最終回
[2009-07-01]
最終回 「これからの映像翻訳者」
私は東京育ちですが、小学校低学年のころ家にはまだテレビもエアコンもありませんでした。冷蔵庫は箱に氷を入れる「アイスボックス」だし、洗濯機は洗濯物をローラーで絞るタイプでした。電話はまだ各戸に普及していませんでしたが、うちは早くから入れていました。ときどき近所の人あてに電話が掛かってきて、そのつど呼び出しに行ったものです。風呂は石炭をくべて沸かしました。夏は蚊やハエに悩まされ、蚊取り線香やハエ取り紙が必需品でした。日曜日には草むしりやドブさらいを手伝い、近くの空き地や草むらで遊んだものです。まだ土や草の匂いがありました。「三丁目の夕日」の世界です。
今から20年ほど前に字幕翻訳の仕事を始めたときは、原稿用紙に手書きでした。まもなくワープロが出ましたが、画面には2行しか表示されず、使い方に不慣れで訳文を保存しそこねて消してしまったこともしばしばでした。やがてパソコンが普及し、メールやインターネットが不可欠になりました。
映画も昔は映画館かテレビでしか見られませんでした。そのうちビデオが出て、BSやCS放送が始まり、現在はDVDやブルーレイの時代です。今に劇場用映画も3Dが当たり前の時代になるかもしれません。
たまに30年くらい前の映画の翻訳を見ると、間違いが多いのに気づきます。ネットで検索はもちろんできなかったし、今ほど辞書類も充実していなかったでしょう。外国生活を経験した翻訳者はほとんどいなかったでしょうし、見る側も英語が分かる人は少なかったので、クレームもあまり出なかったのかもしれません。今ではネットでちょっと調べれば大抵のことは分かりますし、英語が分かる人も多いので、誤訳はもちろん、意訳であってもクレームがつきます。
ここ30年ほどの間に環境は劇的に変わりました。それでは、これからの映像翻訳者に必要な資質とは何でしょうか。外国語に精通していることはもちろんです。英語だけでなく多言語ができれば有利でしょう。字幕翻訳の場合、SSTのようなソフトが使いこなせることも必須です。しゃべる能力はほとんど必要ありませんが、聞き取る力はつけておくべきです。それも単に聞き取れるだけでなく、ドキュメンタリーもののように俳優でない素人がしゃべっている内容を理解する力も大事です。となると1年ぐらいは海外で生活するべきかもしれません。もちろん最後には「日本語力」がモノを言います。
また今までは字幕と吹き替えは別物として住み分けがされてきましたが、近年では両方をこなせる人が重宝がられています。1本の作品を一人で「字幕」と「吹き替え」の両方作れば、すり合わせも必要ないし、コスト軽減にもなるのでしょう。
幸か不幸か、日本人の英語力が飛躍的に高まって翻訳なしで映画を観られるようになる、という日はまだ来そうもありません。また、機械翻訳は映像や文芸の分野ではまだまだ使えません。ですから、日本とアメリカが戦争を起こして、英語が「敵国語」として禁じられたりしない限り、翻訳者の仕事は減らないでしょう。
そう考えると、これからは翻訳者一人ひとりにより高い能力が求められる時代になると思います。業界で生き残るためには、いろんな引き出しをもったマルチな才能が重要になります。皆さんも日々精進して、素晴らしい映像翻訳者になってください。またどこかでお会いしましょう。さようなら。