現役字幕翻訳者 田中武人氏のコラム 第十回
[2009-05-07]
第10回 「何でもないセリフ」
字幕翻訳をやっていて気がつくのは、短いセリフほど意外と訳しづらいということです。日本語にしにくいこともありますし、訳すこと自体は簡単だけれど、制限字数に収めるのが難しいこともあります。いくつか例をあげてみましょう。
Where is the fire?
そのまま訳せば「火事はどこだ?」です。しかしこのセリフは実際に火事が起こっていないときにも使われます。誰かが慌てているのを見て、からかうように使うイディオムなのです。そういうときは「火事はどこだ?」では伝わりません。火事でもないのに慌てている人をからかっているわけですから、「どこかで火事か?」あるいは「何 慌ててる?」のように訳すべきです。このように、イディオムではないような顔をしているイディオムが英語には多いので気をつけねばなりません。辞書を引かずに訳すと痛い目に遭います。Get out of here!もそういう一例で、「出て行け」ではなく「ウソつけ」という意味です。
Meter’s running, boys!
あるアクション映画の一場面。某国で敵につかまった米兵を仲間が助けに行き、車に乗せるときのセリフです。車をタクシーにたとえて「メーターが上がるぞ」と言っているのです。銃弾が飛び交う緊迫した場面でこんな軽口をたたけるのは映画ならではです。ただ、「メーターが上がるぞ」では意味が分かりにくいし、字数もオーバー気味。かといって「早く乗れ」では軽口のニュアンスが出ません。いろいろ考えた挙句にひねり出したのは「割増料金だ」。ジョークの翻訳には掟破りの発想の転換が必要です。
You know what he said?
「彼が何て言ったか知ってるか?」ですが、とてもそんな尺はありません。だからといって安易に「彼の言葉を?」という「を止め字幕」にするのは感心できません。こういうときは次に来るセリフとセットで考えるべきです。次が同じ人物のセリフで、彼の言葉を語るなら、「彼は言った」とか「彼の言葉だ」で続ければいいでしょう。問題は次に別の人物がNo, I don’t.などと答えている場合です。このときこそ「彼の言葉を?」に対して「聞いてない」という返事にして1セットとすることができます。短いセリフは単独でなく、前後のセリフと組み合わせて訳すべきです。
We are definitely not in Kansas anymore.
『オズの魔法使い』を見たことのある人には、おなじみのセリフ。これは他の映画でもときどき使われます。たいていは、どこか知らない場所に連れてこられ、しかもそこは田舎とはかけ離れているようなシーンです。「カンザスじゃないな」と訳すと、オリジナルを知っている人はニヤリとしますが、そうでない人には何のことか分かりません。どちらを取るか迷うことが多いですが、万人に分かりやすい字幕を選ぶなら「こんなとこ初めてだ」のようになるでしょう。このように「映画通」と「そうでない人」のどちらを対象にするかで訳が分かれるケースもあります。
何でもないセリフの訳に、ああでもない、こうでもないと頭をひねる。これぞ字幕翻訳の醍醐味なのです。だから字幕は、やめられない。




