現役字幕翻訳者 田中武人氏のコラム 第六回
[2009-01-06]
第6回「字幕翻訳20年」
今から20年ほど前の私は、某翻訳学校の字幕講座を受講中の学生でした。そのときの講師は岡枝慎二先生です。岡枝先生は「スター・ウォーズ」「ダイ・ハード」など、数多くのメジャーな映画に字幕を付けていました。私はもともと映画好きな上に、読書や文章を書くことも好きだったので、知らず知らず字幕のコツを身に着けていたようです。また学習塾で英語を教えていて、通信講座で文芸翻訳の勉強もしていたので、字幕翻訳の素地は十分でした。
ところで、岡枝先生の講座のクラスに、ある字幕制作会社に勤めている女性がいました。私は彼女から別の会社を紹介してもらい、そこで初めて字幕翻訳の仕事をもらいました。字幕の勉強を始めてまだ半年。しかもブライアン・デ・パルマ監督で、まだ駆け出しのロバート・デ・ニーロが主演しているという作品でした。デ・ニーロはデ・パルマのオーディションを受けてデビューしたのです。
その後、鈴木導先生の講座も受け、岡枝先生と鈴木先生から制作会社に紹介していただきました。当時はまだビデオ・ブームの最中で、制作会社に呼ばれて行くと、NHK-BSで放送予定の作品が3本あり、ディレクターに「好きなのを選んでください」と言われたこともありました。今から思えば「映像翻訳のバブル時代」です。
いろいろな仕事をしましたが、中でも忘れられないのはWOWOWの「シネマ・シネマ・シネマ」という映画情報番組です。これはアメリカの最新映画情報を盛り込んだ30分番組ですが、ネタの新鮮さが命なので、水曜の夜に素材が米国から届き、木曜1日で約300枚の字幕を翻訳し、金曜の朝に納品するというハード・スケジュールでした。これを8年間毎週、計420回続けたことで、翻訳体力がつきました。
また1989年に始まった「山形国際ドキュメンタリー映画祭」は隔年で開かれ、今年は第11回を迎えますが、私はこれに第1回からすべて関わっています。初期のころは翻訳だけでなくコーディネーターも務め、翻訳者や字幕打ち込み会社とのスケジュール調整もしましたし、開幕前日ギリギリに出来上がった字幕入りフィルムを、真夜中に高速を飛ばして山形まで運んだこともあります。
湾岸戦争のころは、戦闘機や潜水艦など兵器ものビデオの仕事が多かったり、日本でちょっとしたアメフト・ブームが起こったころは、もともとアメフト・ファンだったので、何本か依頼が来ました。またあちこちの学校で教壇に立ちましたが、特に1998年ごろに教えていたある翻訳学校では、週に30名のクラスを3つ、計100名近くを担当するという盛況ぶりでした。
劇場公開作品も手がけていますが、特に印象に残るのは「CUBE」と「ホテル・ルワンダ」です。「CUBE」は低予算のSF映画で単館上映でしたが、その映画館の観客動員記録を作り、「大入り袋」をいただきました。「ホテル・ルワンダ」は、メジャーな配給会社がどこも買い付けませんでしたが、映画ファンの署名運動などによって公開が決まり、これも大ヒットしました。
振り返れば、私は先生や友人など、多くの人との幸運な出会いがあって今に至っています。またプロに成り立てのころはどんな仕事でも嫌がらずに受け、半年間1日も休まず働いたこともあります。私が新人翻訳者に言いたいのは、「プロになった最初の5年間が大事」ということです。この期間に必死で切磋琢磨するかどうかで、プロとして生き残れるかどうかが決まると言えるでしょう。